大阪高等裁判所 昭和39年(行ケ)2号 判決
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〔判決理由〕原告は昭和三八年五月一〇日以前から同年八月一〇日まで八日市市に住所を有していたと主張するのに対して、被告は原告の住所は当時同市にはなかつたと主張するので、右当時における原告の八日市市における住所の有無について判断する。
(一) 原告が家族とともに愛知川町大字愛知川七番地の二で生活していたこと、昭和三一年二月頃八日市市金屋町に飲食店を開設し、妻とともに経営してきたこと、同三八年四月一八日愛知川町から八日市市小脇町一〇〇九番地楠神庄一方に住民登録を移したこと、同年九月八日八日市市東本町三一八番地に転住し、愛知川町の家族を呼びよせたことは当事者間に争がない。
(二) ところで、公職選挙法九条二項の住所とは、その人の生活にもつとも関係の深い一般的生活、全生活の中心を指すものと解すべきである(最高昭和三五年三月二二日三小判、民集一四巻四号五五一頁参照)が、<証拠略>を総合すれば、原告は右のとおり妻と飲食店の経営にあたつたが、そのため原告は住所であつた愛知川町大字愛知川七番地の二を毎日午後、はじめは自転車で、昭和三一年一二月以後はスクーターで妻を後部座席に乗せて飲食店に通い(時には妻は近江電鉄で通うこともあつた)、主として原告は飲食店の料理材料等の仕入、妻は調理、客の応待を担当していたこと、店をしまい、原告が妻とともに右愛知川の家に帰り着くときには午後二時三時になることが屡々あつたこと、はじめ原告は愛知川町において共産党の政治活動に尽力していたが、昭和三一年頃から八日市市での党活動にも関係するようになり、同三四年三五年には八日市市の安保斗争に加わり、同三八年二月には共産党湖東地区常任委員として八日市市担当者に指名され、同年四月には共産党愛知川分局長を辞し、本格的に八日市市で党活動に従事するようになつたこと、本職の飲食店の経営については、料理材料の仕入は引続きひきうけていたが、その他のことは一切妻和子にまかせ、党活動に専念するようになつたこと、この頃の原告の生活は朝食を愛知川でするだけで、あとの二度の食事は八日市市ですませ、その全生活ともいうべき経済的政治的生活はすべて八日市市でなされ、愛知川町には単に夜中帰つて眠るだけであつたこと、加うるに昭和三六年及び三八年に子供が生れたため飲食店の経営の主力となつていた妻は子供に対する授乳看護に非常な苦労をしなければならなかつたことや、原告の八日市市における政党活動が次第に忙しくなつてきたこと、飲食店に遠くから通うことの不便、ことに深夜閉店後愛知川町の家まで帰る不便等は、耐え難いものとなつてきたこと等のため、原告は住居を愛知川町から八日市市に移すことを決定し、昭和三七年九月一〇月頃から友人知合い等に頼み、自らも同市に住居を探したこと、しかし、なかなか見つからず、昭和三八年一月なか頃同市金屋町の旧島藤旅館に一間を借りて妻とともに移り住んだが、旅館所有者の都合で翌二月下旬そこを明渡さなければならなかつたこと、そのため一旦愛知川の家に帰つたが、原告だけ単身で同年四月はじめ同市小脇町一、〇〇九番地楠神庄一方に同居をはじめ、同月一八日愛知川から同所に住民登録を移したものであること(この住民登録の移転については当事者間に争がない)、その後は同所で寝起きし、朝食をとり(もつとも同所では主として寝起きして朝食をとるぐらいで、朝そこを出ては、後記のとおり八日市市内で共産党活動に従専するか、飲食店の仕事に従事し、夜おそくでなければ帰らなかつた。そのため同所における原告の存在は近所の人達の目にも余りつかなかつた。また楠神庄一も同年一一月結婚するまでは独身で、共産党員として党活動に従事していたので、昼間は不在勝であつた)、飲食店の料理材料の仕入れにあたるとともに八日市市の共産党の活動に従事し、同年五月にはメーデー大会、六月には地区労定期大会等八日市市で行なわれた主要な共産党及び革進系団体の会合にあまねく出席して、主要な役割を演じていたこと、しかし、右楠神庄一方に同居するについては、隣近所には勿論、隣に住む家屋所有者田中はるにもことわらず、原告の表札も掲げなかつたが、それはそのようなことをすればいずれ原告が共産党員であることが分つたとき楠神庄一に迷惑がかかる等のことを慮つたものであること、原告はその生活費の全部を前記八日市市金屋町の飲食店経営による収益によつてまかなつていたこと、原告は昭和三八年四月一八日前記のとおり楠神庄一方に住民登録を移した頃から以後は、愛知川町には残してある家族と会つたりするため等に、時たま帰るにすぎなかつたことが認められ、そして、同年九月八日原告は八日市市東本町三一八番地に転居し、愛知川町に残していた家族を呼びよせたことは、前記のとおり当事者間に争ない事実である。以上の認定に反する証人川口庄吉、延沢常次郎、木村正義、深田正治の各証言、前記認定に供した各証拠に照して措信できず、成立に争ない乙第一号証は受取人があて所に尋ねあたらないため小脇町一、〇〇九林泰助宛の電報は八日市電報電話局で保管している旨の昭和三八年八月七日付の深田正治宛の通知書であることは、その記載上明らかであるが、前認定のように、原告及び楠神庄一とも昼間は不在勝であつたこと、原告が楠神方に同居するについては、隣近所には勿論、家主にもことわらず、原告の表札も掲げなかつたことからみると、原告宛の電報が不送達に終ることも時にはあり得ると考えられるので、乙第一号証も右認定を左右するに足らず、その他には右認定を左右するに足る証拠はない。
(三) 右(一)(二)の事実に基づいて判断すれば、原告の客観的な生活の実態及びその主観的な意欲から見て、原告の住所は昭和三八年五月一〇日から同八月一〇日の間においては、八日市市小脇町一〇〇九番地にあつたものと認めるのが相当である。(安部覚 山田鷹夫 鈴木重信)